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藁をも縋る思い(1)

18歳のころが一番状態がひどかったように思う。
反動と現実逃避がミックスされた過食に毎日悩まされた。
とにかく「食べるか食べないか」しか考えることができなかった。

辛かった。あのときの辛さをどう表現したらいいかわからない。とにかくものすごく辛かった。
この辛さを母に分かってほしくて、でもわかってもらえなくて、でもどうしても分かってほしくて、いつも泣いたりわめいたり
時には包丁を振り回したり、ガラスを割ったりしながら
暴れた。
でも後で必ず謝った。こんなにおかしな私をどうか
嫌わないでほしい、どうか見放さないでほしいと思った。

だが、情緒不安定な私の言動に振り回れて続けてきた両親が
疲れ果ててしまったのは当然のことだった。

ある日の朝、私は突然、山梨県韮崎にある、ある施設に
連れて行かれた。
裏切られた!と思った。ものすごくショックだった。
そこは決して嫌な場所ではなかった。みんな優しかった。
でも当時の私は完全に母親に依存していたこともあり
寂しくて悲しくてたまらなくて、あれこれ理由をつけて東京に
逃げて帰ってきた。
でも先に施設から連絡をもらい、指示を受けていた母は
私を決して家の中に入れてはくれなかった。
私はしばらく玄関先で泣いていたが、やがて絶望感と共に
施設へと戻った。
施設での生活は吐き気がするほどつまらなかった。
監視されているから過食もできない。でも3食きちんと
出されたものは全部食べなくてはだめで、過食はしないけど
ダイエットもできず、これと言ってしなければならないことも
したいこともなく、ただただ太っていく自分に気が狂いそうだった。

1ヶ月後両親が迎えに来た。
にこやかな両親の顔を見て、私は無性に腹が立った。
「私がいない間、あんたたちはさぞかし楽しかったでしょうよ。嬉しかったでしょうよ」と思った。
でも口にはしなかった。言ったらまた施設に入れられると思った。

それから4日後、私は睡眠薬を一瓶飲んだ。もうどうなっても
いいと思った。

一番悔しかったことは?と聞かれたら、今でもあのころのことを
思い出す。
でも今は、当時の親も限界だったことは理解できる。
私が暴れたとき、もうどうしたらいいか分からなくて、
そんな時母が相談できたのは婦人科の助産婦さんだけだった。
藁をも縋る思いの母に、彼女が紹介したのがその施設だったのだ。
母は迷ったそうだ。でも迷っていては駄目だ!と彼女から
言われ、このままでは何も変わらない!と思った母は、思い切って私をそこに連れて行ったそうだ。
つまりすべてはその助産婦さんの指示通りに行われた
ことだったのだ。

摂食障害について全く知識がない人にしか相談することが
できなかった当時の母を、責めることはできない。
だってそれ以前に、私たちは全国を探しまわり沢山の
「名医」に相談してきたのだから。頼ってきたのだから。
なのに誰一人、私たちに適切なサポートをしてはくれなかった。
当時は「摂食障害」についての知識も治療法も非常に
乏しく、相談に訪れる摂食障害者は貴重な研究材料だった
のだ。どの病院へ言っても相談には応じてもらえず、
とにかく状態や今までについてを根ほり葉ほり聞かれるだけ
だった。名医=有名な研究者といったところだった。
何かアドバイスがほしいと思っても、医師からもらえるのは
「幼い頃の母子関係に問題が・・・」という曖昧な言葉と
薬だけ。最初は大きな期待を持って飲んでいた薬だったが
良い作用を感じたことは一度もなく、むしろ副作用の辛さに
驚いて飲むのを止めてしまった。

いろんな医師に会い、偏った情報の専門誌を読みあさり、私は
「私がこんな風になってしまったのはお母さんのせいなんだ」
と思いこむようになった。

しつこいようだが、当時はデーターが非常に乏しい時代だった。
だから医師のそっけない対応も仕方がなかったんだと思う。
でも確かな情報を全く得られずに、私たち親子がどんなに苛立ち
どんなに不安を感じて毎日を過ごしているか、それを察してくれる人はもちろん誰もいなかった。

誰も助けてくれない。一生このままなのかもしれない。
「私なら治せるぞ」「こうすれば治るぞ」という場所や
あるならば、そんな人がいるならば、それがどこだろうが、
誰だろうが、どんなにお金がかかろうが、飛びつきたい。
そんな心境だった。

そしてとうとう私たちは飛びついてしまった。
自殺が未遂に終わった翌日、私と両親は東京の郊外にある
「●●意識●●研究所」というところに行った。
生まれて初めて宗教団体の門をくぐった。

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