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私の摂食障害

ある精神科医がこんなことを言っていた。
 「心の病に、ある薬がドンピシャ効いてしまった。みんなで大喜びした。でもその薬のお陰で急に回復した患者さんにとっては、何がなんだか分からないうちに症状だけ消えたことになるから、どうしてもしっくりこない。「苦しい症状」と「いきなり治った」という2つだけがあって、その間の「治っていく過程」がないと、この2つをつなげることができず、どういうときに具合が悪くなったり、おかしくなるのかが全くわからない。だから簡単にぶり返してしまった。おかしくなることに対する抵抗感も防御策も身に付けていないから、再発するのは当然だ。治療者にとっても患者さんにとっても、治療は「点」と「点」ではだめだと感じた。連続性のある「線」で見て行かなくてはだめなのだ。」
 摂食障害に苦しんでいたころ、名医に出会えたら、摂食障害は治してもらえるのではないか?薬を飲めば、摂食障害は治るのではないか?と期待していた。ずっとそんな人や薬や場所を探していた。新興宗教にのめり込みそうになったこともあった。だが、期待すればするほど、裏切られたときのショックは大きく、症状はひどくなるばかりだった。
 過食しないことは何度ともあった。その度に、治ったのかもしれない♪と喜んだ。だが、その後には必ず過食をしてしまい、奈落の底に落とされた。「過食する」か「過食しない」かの「点」だけを見て、一喜一憂していた。何年間も「点」と「点」だけを結ぼうとし続けた私は、やがて心底疲れ、やっと懲りた。そして納得した。摂食障害は、他力本願では治せない、治らないのだと。
 期待は一切持たなくなった。ずっとそこに注いできた気力・体力は全て、「ダメな自分でも何かできるか?」に向けられるようになった。そこからは早かった。ダメな自分でも何か1つできたら、大いに誉めてあげた。できないことも沢山あったから、焦りや苛立ちはあったが、できることは確実に増えていった。そのせいで失うものがあったとしても、それほど困らないことに気付き、勇気づけられた。なかなか前に進めていない気がしても、来た道を振り返れば、そこそこ歩いてこれていることに安堵した。
 過食した日は日記に「×」と書いて自分を戒めていたが、過食したとしても、どんなに些細なことでもできたことがあれば「◎」と書くようにした。すると、自分を責める時間はかなり減り、「こんな自分でも、まぁいっか!」と思えることが増えてきた。過食は相変わらずしていたが、落ち込みはするものの、あまり責める気にはならなくなった。いつしか、なんとなく、ダメな自分も「自分の1部分」として認めてあげてもいいのでは?と思うようになっていた。
 摂食障害は「良い子」がなりやすいそうだ。だが、私は決して良い子ではなかった。良い子だと思われたくて(そういう扱いにひどく飢えていて)、とにかく良い子に見えるように振る舞っている子だった。ところが、周囲からはなかなかそういう風には見てもらえない。むしろその逆で、私はどこに行っても空気の読めない子に映るらしかった。周囲からそう見られていることにすぐに気づいてしまう自分はひどくひどく惨めだった。だからますます良い子を演じざるを得なかった。良い子は手がかからないし、親に迷惑をかけないから、親からも当然のことのように、そういう子なのだと思われてしまう。だから褒められない。
 親なんて、なんだかんだ言いながらも、やっぱり子どもには「良い子」でいてほしいものだ。感受性の高い私は親の期待が分かってしまうし、そう思い込んでしまったからには、「良い子」からどうしても抜け出せなかった。だけど、誰も私を「良い子」だとは思わない、気づかない。
 もう何をどうしたらいいのか分からない。自信も自尊心も全く持てない。とうとう、焦りや不安をごまかせきれなくなり、今までずっと頑張って演じてきた良い子の反動が爆発してしまった。それが摂食障害に悩み苦しみ、暴れまくる私だった。そんな自分を私は激しく罵り責めまくった。「すぐによい子に戻るからどうか嫌わないでほしい」と親に懇願した。「こんな悪いことするのは本当の私じゃない!」と必死に否定した。
 自分ではコントロール不可能な、ひどい人格が突然出てくるんだ!誰か、助けてよ!気が狂いそうだよ!でも本当に誰かが助けてくれて、この病気が治ったら、良い子に戻らないといけない・・・・。だから、本気でこの病気から抜け出したいと思っているのに、どうしても本気で抜け出そうとすることができなかった。
 病む前の私の気持ちを、誰も理解してくれないし、気づいてもくれなかった。病んだ後の私の気持ちは更に誰も理解してくれなかった。病気そのものがもたらす苦しみ、その苦しみを家族にも友人にもわかってもらえない苦しみ、その苦しみをうまく伝えられない自分に苛立つ苦しみ、社会的な差別や偏見に傷つく苦しみ・・・書き出したら切りがない苦しみの数々。これじゃ、病むのは当然だよ。治らないのは当然だよ。
 ある臨床心理士が言っていた。「病気の回復・克服に必要なのは未来への希望だ」って。その通りだと思う。でも私の場合は、病む前からもうすでに、自分の未来に夢も希望も抱けていなかった。私の未来は輝かしいくらいの絶望と不安と焦りで一杯だったんだ。それをかき消してくれる、ものすご~く強い衝動が、私にとっては拒食であり過食だった。どちらもコントロール不可能で、死にたいほど辛い行為だったが、疲れ果てた私の身体にとっては、終わりなき絶望と不安と焦りに立ち向かうための漠然とした無意味な努力をし続けるよりも、ずっとずっと楽なことだった。
 38歳になった今の私は、あのころの自分について懐かしみながら笑って話せるほど、健やかに毎日を過ごしている。年を重ねる毎に、心が落ち着いてゆくのが分かる。激しい衝動や欲求はもうほとんど起きない。あれこれ欲張らずに、頑張らずに、毎日淡々と必要最低限のことをこなす。それで充分幸せだと感じられる。それが何よりも嬉しい。
 摂食障害を克服していく過程で、さまざまなことを体感し、納得し、ぶり返し防止のコツも得て、「まぁいっか!」と思えるクセもつき、良い子や良い人じゃなくても、「ま~、こんな感じがふつうってもんでしょうよ」と開き直ることもできるようになった。何はなくても、できなくても、「自分はなんて幸せなんだろう♪」と思える。しつこいけど、そう思えるようになれたことが本当に本当に幸せ。
 もう2度とあんな苦しみは味わいたくない。だが、もしまたぶり返したら、その時はその時だよな~と思うしかない。覚悟はバッチリできている。もう「点」になんて期待していない。新たな防御策を練り、それを駆使して回復していく「線」をまた1つ知り得るだけのことだ。だからもうぶり返しは怖くない。
・・・な~んて言うのは大嘘!!!やっぱりもうぶり返したくなんてない。だからこそ、マイペースで毎日を過ごす勇気がとても大切だと思う。今の自分にできていること、したいことを大切に。決して無理せず(無理したら、その分、ご褒美をあげつつ)、奢らず、小さな幸せに目を向ける意識を絶やさないことだ。

●摂食障害の説明
 摂食(食事を摂る行為)が生活の障害になっている状態のことです。自分の思うようにいかない現実問題から逃げるために身体が「悪者」としてつくった依存症の一種で、拒食・過食・過食嘔吐などがあります。本来、食事は楽しい時間のはず。心にとっても身体にとっても大切な息抜きの時間の1つです。でも摂食障害に悩む人たちにとって、食欲は「悪」に近いものであり、食事は気を張ってしまうひとときです。全ての欲を自制することを「当然のこと」としているので、異常な食欲(食事制限としたために起こる反動の過食や、現実の辛い出来事をごまかすためにしてしまう現実逃避の過食)を、最低最悪な行為としか思えません。そして、自制が効かなかった自分を「意志が弱い。甘い!」とひどく責めては落ち込みます。でも、拒食も過食も、それ以外の問題から逃げた「結果」に過ぎず、ここだけを見ていても、何の改善にもなりません。
 摂食障害の克服とは、食事を摂る楽しみや、食事を取ることで得られる息抜きを許せるようになることであり、つまりは、現実問題とちゃんと向き合い、対策を考えられる余裕やスキルを持てるようになっていることなのです。こうなれば、たまに拒食になろうが過食になろうが、もう摂食障害とは言わないし、そうは思わない方がより「ふつう」の食欲に戻していけます。

注)これは、去年の11月に、知人が運営しているサイトに贈呈した文章です。

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